大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所大法廷 昭和32年(あ)2247号 判決

判  決

本籍

名古屋市南区七条町二丁目一七番地

住居

同市同区観音町五丁目一一八番地

鈑金工 市川鉄夫

昭和五年三月二五日生

本籍

西尾市中畑町東側四二番地

住居

名古屋市千種区覚王山通六丁目三番地

野々山浴槽株式会社内

熔接工 稲垣孝夫

昭和九年一〇月二〇日生

右の者らに対する強盗殺人被告事件について、昭和三二年七月八日名古屋高等裁判所の言い渡した判決に対し、被告人らから上告の申立があつたので、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

同第六号について。

論旨は、死刑の執行方法について法律の定めがないに拘らず、その方法を特定することなく敢えて絞首刑たる死刑を宣告したことは、憲法三一条、三六条に違反すると主張する。

しかし死刑の執行方法に関する事項を定めた所論明治六年太政官布告六五号は、同布告の制定後今日に至るまで廃止されまたは失効したと認むべさ法的根拠は何ら存在しない。そして同布告の定めた死刑の執行方法に関する事項のすべてが、旧憲法下また新憲法下において、法律をもつて規定することを要する所謂法律事項であるとはいえないとしても、同布告は、死刑の執行方法に関し重要な事項(例えば、「凡絞刑ヲ行フニハ……両手ヲ背ニ縛シ……面ヲ掩ヒ……絞架ニ登セ踏板上ニ立シメ……絞繩ヲ首領ニ施シ……踏板忽チ開落シテ囚身……空ニ懸ル」等)を定めており、このような事項は、死刑の執行方法の基本的事項であつて、死刑のような重大な刑の執行方法に関する基本的事項は、旧憲法下においても法律事項に該当すると解するを相当とし(旧憲法二三条)、その限度においては同布告は旧憲法下において既に法律として遵由の効力を有していたものと解するを相当とする。けだし、旧憲法前の法令は、その名称の如何を問わず、旧憲法下において法律をもつて定むべき事項を定めたものは、法律として遵由の効力を有していたからである。(旧憲法七六条一項。この理は、同布告自体が旧憲法下において一回も改正される機会がなかつたことによつても、何ら異なるところはない。)更に新憲法下においても、同布告に定められたような死刑の執行方法に関する基本的事項は、法律事項に該当するものというべきであつて(憲法三一条)、検察官はその答弁書において、右布告の内容は法律事項ではなく、死刑執行者の執行上の準則を定めたものに過ぎないから、現行法制からみれば法務省令をもつて規定しうるものであるというが、当裁判所は、かかる見解には賛成できない。将来右布告の中その基本的事項に関する部分を改廃する場合には当然法律をもつてなすべきものである。なお、昭和二二年法律七二号「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」は、新憲法下において法律をもつて規定することを要するとされている事項を定めた従前の命令の規定につき、その新憲法下における効力を定めたものであつて、旧憲法下において既に法律としての効力の認められた法令(例えば本件明治六年太政官布告六五号のごとく旧憲法七六条により法律として遵由の効力を認められたと解されるもの、または旧憲法八条による緊急勅令であつて帝国議会の承諾を得たもの等)については、触れるところはない。それ故、右布告は、右法律によつて昭和二二年一二月三一日限り効力を失つたものであると解する余地はなく、新憲法下においても、法律と同一の効力を有するものとして存続しているのである。そして、現行死刑の執行方法が憲法三六条の「残虐な刑罰」に当らないことは、上記論旨第一点についての説明中に引用した当裁判所の判例の示すとおりであるから、右布告は新憲法下において、法律と同一の効力を有するものとして有効に存続しているといわなければならない(憲法九八条一項)。

しからば、死刑に関する現行法制としては、刑法一一条、監獄法七一条一項、七二条、刑訴法四七五条ないし四七八条等の法律の規定があるほか、憲法上法律と同一の効力を有すると認められる明治六年太政官布告六五号の規定が有効に存在し、これらの諸規定に基づきなされた本件死刑の宣告は、憲法三一条にいう法律の定める手続によつてなされたものであることは明らかである。また、現在の死刑の執行方法が所論のように右太政官布告の規定どおりに行われていない点があるとしても、それは右布告で規定した死刑の執行方法の基本的事項に反しているものとは認められず、この一事をもつて憲法三一条に違反するものとはいえない。それ故、右布告が既に失効したものであることを前提とする憲法三一条、三六条違反の主張は採るを得ない。

被告人稲垣孝夫の弁護人伊藤静男の上告趣意について。(省略)

よつて刑訴四一四条、三九六条、一八一条一項但書により主文のとおり判決する。

この判決は、被告人市川鉄夫の弁護人天野敬一の上告趣意第六点につき裁判官斎藤悠輔、同藤田八郎、同奥野健一の補足意見及び裁判官島保、同河村又介、同池田克、同石坂修一の意見あるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

被告人市川鉄夫の弁護人天野敬一の上告趣意第六点についての裁判官斎藤悠輔の補足意見は、次のとおりである。

論旨は、死刑の執行方法については法律の定めがないに拘らず、その方法を特定することなく敢えて絞首刑たる死刑を宣告したことは、憲法三一条、三六条に違反すると主張する。

しかし、原判決は、被告事件につき証明あつたものと認め、刑法二四〇条後段を適用して所定刑中死刑を選択した上これを言渡したに過ぎないものであること記録上明白である。そして、刑訴法は、被告事件について犯罪の証明があつたときは刑訴三三五条所定の要件を示して刑の言渡をしなければならない旨規定するに止り、所論のごとくその執行方法を特定しなければならないことを規定していない。死刑の執行方法については、刑法一一条、刑訴法四七五条以下、監獄法七一条、七二条等において別に規定しており、判決の作成、言渡等の関するところでないこというまでもない。されば、所論は、原判決に何ら影響を及ぼさない刑の執行方法につき独自の見解を述べるに過ぎないものというべく、上告適法の理由と認め難い。

弁護人天野敬一の上告趣意第六点に関する裁判官藤田八郎の補足意見は次のとおりである。

憲法三六条は「残虐な刑罰は絶対にこれを禁ずる」と規定する。刑法の規定する死刑は、今日の社会環境、国民感情から見て、一般に、直ちに憲法三六条にいわゆる残虐な刑罰に該当するものと云えないことは、つとに当裁判所大法廷判決(昭和二三年三月一二日大法廷判決―刑集二巻三号一九一頁)の判示するところであるけれども、「死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて、人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ」ことは、また右大法廷判決の判示するところである。されば残虐な方法による死刑の執行は憲法の絶対に禁ずるところであり、残虐な方法による死刑の執行を受けないことは憲法の保障する国民の権利というべきであつて、死刑の執行の残虐にわたらないことの担保に関する事項は、少くとも新憲法上、法律をもつて規定すべきいわゆる法律事項に該当するものといわなければならない。

刑法は死刑は絞首して之を執行することを規定している(一一条一項)けれども、絞首といつても、その方法のいかんによつては残虐にわたるおそれのあることは勿論であつて(「往年、満州国において行われた絞柱式による絞首刑執行の方法のごときは、今日の国民感情から見て、これを「残虐な刑罰」と称してあやまりないであろう。)刑法の外、刑訴法、監獄法にも死刑の執行方法に関する規定があるけれども、これら諸規定は未だもつて残虐にわたらないことを担保するものとして十分であるとは云えない。

本件において問題となつている太政官布告六五号は、死刑の執行方法に関する精細な規定であつて、死刑の執行方法が残虐にわたらないことを担保する内容を有するものである。そして同布告がいわゆる法律事項に関するものであり、しかも旧憲法下において法律と同一の効力をもつものとせられたことは多数意見の説くとおりである。なお、同布告中、絞繩解除の時間に関する点は、当初同布告に二分間と定められていたのであるが、後、旧監獄則三七条二項により五分間に改められ、さらにこれを法律に改めたのが現行監獄法七二条である。現行監獄法は明治四一年に制定施行された法律で、主として自由刑の執行の方法に関するものであるが、当時、囚人の権利保障に関する事項は命令に委ねるべきでなく、法律をもつて規定せよとの要望に応えたものであつた。(自由刑執行の方法が法律をもつて規定されたのは、わが監獄法が世界最初のものであるという。)しかも、同法は死刑執行の方法に関してはほとんど規定するところなく、七条に「死刑の執行は監獄内の刑場に於て之を為す」と規定するの外、七二条に前記絞繩解除の時間に関する規定あるのみである。そして、同七二条は太政官布告六五号の二分を五分と改めたものであることは前叙のごとくであつて、即ち監獄法の右の規定は死刑の執行方法に関し、同布告の規定を補足するものであり、同布告は監獄法と一体を為して、刑の執行の方法に関し、行刑法体系を形成していたものというべきであつて、この点から見ても同布告は旧憲法下において法律と同一の効力をもつものとして取扱われていたことはあきらかである。従つて昭和二二年法律第七二号一条の適用とは無関係であつて、現在法律として有効に存続しているものと解すべきことは多数意見の説くとおりである。(昭和二四年四月六日大法廷判決―刑集三巻四号四五六頁。同三四年七月三日第二小法廷判決―刑集一三巻七号一〇七五頁参照)

弁護人天野敬一の上告趣意第六点についての裁判官奥野健一の補足意見は次のとおりである。

一、死刑(絞首刑)といえどもその執行方法は多種多様であり、絞首の方法如何では残虐な刑となる可能性がある(例えばかつて満州で行われたという一本の小棒と一本の繩により首をしめ上げる絞首の執行方法の如きは或は残虐な刑ということになろうか)のみならず、苟も生命を奪う方法は基本的人権の最も重要な生命に関する重大事項であるからその手続は憲法三一条の「法律の定める手続」に該当するものであつて、同条は単に判決を言渡すまでの手続のみならず刑罰の執行手続をも包含するものと解すべきである。そして死刑の執行手続が法律事項であることは新憲法のみならず、旧憲法の下においても同様であり、広い意味において旧憲法二三条の「処罰」に包含せられるものと解するから死刑の執行方法の大綱は「法律」に依つて定められるべきものと考えるのであつて、単に執行官の自由裁量に委ねたり、行政府の単なる規則に委ねることは許されないところであるというべきである。すなわち、絞首刑の執行方法に関する刑具の構造、使用方法、被執行者の取扱方法等の基本的事項は旧憲法の下でも、新憲法の下でも共に法律事項であるといわねばならない。

二、太政官布告六五号は明治三年一二月二日頒布の新律綱領に定められた絞首刑の執行方法である絞柱式を改め、絞架式とするため、その刑具とその使用方法を図解し、また、絞繩解除の時間を定めたものであるが、新律綱領および改定律令が明治一五年旧刑法の施行により廃止されたものと解すべきものとしても、右布告はこれに附随して当然に失効することなく旧刑法の死刑(絞首刑)の執行方法を定めたものとしてなおその効力を有し、更に旧刑法が廃止され、新刑法が施行された後もその死刑の執行方法を定めたものとして有効に存続していたものと解すべきことは、その間同布告を廃止する旨の何らの法令も発せられず、また、これに代わるべき法令の制定もなかつたことによつても明白である。

三、元来太政官布告は法令の形式からいえば法律、命令等あらゆる形式の法令に該当するものを含み、実質的内容からいえば法律事項であるものと法律事項でないものとを含むものであるから、単に形式からいつて太政官布告六五号が法律として効力を有するのであるか、法律以外の法令として効力を有するものであるかは必ずしも明白でないのであるが、前記布告の内容が生命を剥奪する絞首刑の執行方法であつて基本的人権に重大な関係を有する事項を規定したものであるから、その名称の如何を問わず旧憲法下においても法律を以つて定むべき事項を定めたものであると解すべきことは前記のとおりであり、従つて旧憲法七六条一項により法律として遵由の効力を有していたものと解すべく、また、新憲法の下においても、右布告六五号の内容は憲法の条規に反しないものであり、同法九八条により法律として効力を有しているものと解すべきであるから、昭和二二年法律七二号一条の適用を受けないものというべきである。従つて右布告は現に法律と同一の効力を有するものとして有効に存続しているものと解する。

四、現に行われている地下絞架式の執行方法は前記布告六五号の図解するところに比し、むしろ被執行者の精神的苦痛を軽減し、執行の公開主義から密行主義への推移に沿う合理性を備えているものであつて、右布告六五号に準拠していないとは言いえない。

果して然らば、死刑(絞首刑)の執行方法について現に何ら法律の定がないから憲法三一条、三六条に違反するとの論旨は理由がない。

弁護人天野敬一の上告趣意第六点についての裁判官島保の意見は次のとおりである。

死刑の執行は、適正に行われ不当に人権を害することのないよう、その手続は、法律によつて定められなければならないことはいうまでもない。ところでわが法律によれば、死刑の執行は監獄内の刑場において絞首によつて行われ(刑法一一条、監獄法七一条)その執行は法務大臣の命令がなければ行われず、その執行には検察官、検察事務官及び監獄の長又はその代理者が立ち会い、死刑の執行に立ち会つた検察事務官は執行始末書を作り検察官及び監獄の長又はその代理者とともにこれに署名押印しなければならず(刑訴四七五条、四七七条、四七八条)、死刑の言渡を受けた者の心身の状態によつては法務大臣の命令によつてその執行を停止すべきことが定められており(刑訴四七九条)、その手続が残虐であつてはならないことは憲法三六条の保障するところである。以上のように法律によつて死刑執行の手続の基本的事項が定められており憲法によつて保障されている以上、憲法三一条の要請は満たされているものと解すべきであるから、死刑執行手続の細部を定めた明治六年太政官布告六五号が今日においても法律としての効力を有するか否かを問うまでもなく所論のような憲法三一条、三六条の違反は存しないものというべきである。

弁護人天野敬一の上告趣意第六点についての裁判官河村又介の意見は次のとおりである。

憲法三一条の違反を主張する論旨は採用し難いとする点において、私は多数説と結論を同じくするけれども、その理由については見解を異にし、島裁判官及び池田裁判官と大体において同じ意見である。すなわち死刑の執行方法については、現行の刑法、刑訴法、監獄法等における諸規定をもつて、憲法三一条の要請は充たされており、それ以上の細目は法律によつて定めることを必要としないものと信ずる。従つて明治六年太政官布告六五号の規定は、本来法律を以て規定することを要する法律事項を規定したものとは考えない。多数説は、それが法律事項を規定したものであつて、明治憲法下において法律として遵由の効力を有するものとされていたのであるから、昭和二二年法律七二号にかかわりなく現に法律と同一の効力を有するものとして存続している、というが、私はかかる見解には承服しかねる。

私の信ずるところによれば、明治六年太政官布告六五号に規定するような死刑執行方法の細目は、明治憲法下において法律事項とは認められていなかつたものであり、従つて右の布告は命令として効力を有していたものであつた。そしてそれは新憲法においても法律事項とされたものではないから、右の布告は昭和二二年法律七二号にかかわりなく命令としての効力が存続するものと認めるべきである。若し右の布告が多数説のいうように法律事項を規定したものであるとするならば、右の法律七二号一条の文理から考えても、その立法精神に照らしてみても、同法律によつて昭和二二年一二月三一日限り失効したものと解するの外なく、論旨は理由あるに帰するであろう。

なお藤田裁判官の補足意見においては、右太政官布告中、絞繩解除時間を二分間とした規定が、監獄法によつて五分間と改められたことをもつて、右の布告が法律と同一に取扱われていたと認める一つの理由とされているが、右の意見中にも述べられてあるとおり、この改正は、最初明治二二年勅令九三号をもつて改正された監獄則三七条二項によつてなされたものである。明治二二年は明治憲法施行前であつて、国会の議決を経たか否かによつて法律と命令との区別をすることはできなかつたけれども、近く憲法が施行されることを予想し、憲法上国会の議決を必要とする事項の規定には、「法律」という名称がつけられた時期である。そのような時期に、法律でなくて勅令たる監獄則をもつて所論の改正がなされたことは、むしろそれが立法事項でないと認められていたことの証左となるものではなかろうか。問題は、その事項に関する法規の制定改廃に憲法が国会の議決を必要条件としているか否かであつて、国会の議決を経ることが妥当か否かにあるのではない。国会の議決を経ることが政策上どんなに望ましいことであろうとも、それを憲法が法規成立の必須条件として要請しているのでない限り法律事項ではないとこを銘記すべきである。

弁護人天野敬一の上告趣意第六点についての裁判官池田克の意見は次のとおりである。

憲法三一条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、刑罰を科せられない」と規定する。その趣旨が、単に刑罰を科する裁判を言い渡すまでの手続にとどまらず、刑罰を科する裁判の執行についても、これを法律事項とすべきものとするに在ることは、いうをまたないところであり、その必要は、極刑たる死刑の執行について特にしかりということができる。そして、法律において、その手続が慎重且つ公正に行われるように、また、就中執行の中心をなす生命を奪う方法が残虐にわたることのないように担保されなければならないものと解釈されるのも、右の意味から理解されるところである。

しかし、それだからといつて、死刑の言渡を受けた者を死に至らしめる方法を定めた規定が法律事項としての要件をそなえているかどうかの問題を重視して事を論ずるに急なるの余り、刑法、刑訴法、監獄法が死刑の言渡を受けた者の処遇並びに死刑執行に関する重要事項を定めている諸規定を過少評価すべきではなく、これら一連の諸規定と併せて全体的綜合的に解釈をした上、右に述べた手続の慎重、公正、残虐にわたらないことの諸点が確保されている限り、右憲法の要請を充足しているものと解するのを相当とする。

そこで、この見地に立つて右法律の定める一連の諸規定を通観すると、左記のとおりである。

(一)  死刑の言渡を受けた者は、その執行に至るまでこれを拘置監に拘置するものとして(刑法一一条二項、監獄法一条一項四号)、刑事被告人に準ずるの処遇を認めている。

(二)  死刑の執行は、特に法務大臣の命令によるものとして(刑訴四七五条一項)、手続が慎重に行われることを期している。

(三)  法務大臣の執行命令は、判決確定の日から六ケ月以内にこれをしなければならないのであるが、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しないものとして(刑訴四七五条二項)、一方においては、不当に長く死の恐怖を与えないための配慮をすると共に、他方においては、生命を尊重する趣旨を明らかにしている。

(四)  死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態にあるときは、法務大臣の命令によつて執行を停止すべきものとし、死刑の言渡を受けた女子が懐胎しているときも同様であるとして、(刑訴四七九条)一面においては、死刑の執行が単にその者の社会からの除去を意味するにとどまらず倫理的意義をも内包するものであることを明らかにすると共に、他面においては、死刑の執行がその者の生命を絶つことによつて、やがて出産する罪のない胎児の生命を奪うことまで許容するものでないことを明示している。

(五)  死刑の執行は、監獄内の刑場において絞繩を用い絞首して行なうものとし(刑法一一条一項、監獄法七一条一項、同七二条)、且つ、その執行には、検察官、検察事務官及び監獄の長又はその代理者が立ち会い、検察事務官は、執行始未書を作り、検察官及び監獄の長又はその代理者と共にこれに署名押印しなければならないものとして(刑訴四七七条一項、同四七八条)、簡潔ではあるが、死刑の言渡を受けた者の生命を直接に奪う方法が斬殺、銃殺その他の手段と異なる所以の本義を明規し、且つ、その方法の実施が公正になされることを担保している。

(六)  そして、なお刑場には、検察官又は監獄の長の許可を受けた者でなければ、入ることができないとして(刑訴四七七条二項)、ヒユウマニズムの立場から死刑執行が厳に非公開の下に行われるべきものとしている。

以上の記述を要するに死刑執行に関する現行法律制度としてみると、現行法制に力強く脈をうつているものは、人権・生命尊重の大趣旨であり、死刑執行の手続が慎重に公正に行われ、且つ残虐にわたることのないようにするための法的規制が整えられているということができる。執行の命令者、時期、場所、方法、立会者及び記録作成等に関する規定は、まさに相互に作用し合つて全体として憲法三一条の要請を充足しているものというべきであつて、所論の如く、また、多数意見及び補足意見の如く、明治六年太政官布告六五号が現在法律として有効に存続しているものと解すべきか否については、論議を要しないものといわなければならない。論旨は理由がない。

なお、「現在わが国の採用している絞首方法が他の方法(斬殺、銃殺、電気殺、瓦斯殺等)に比して特に人道上残虐であるとする理由は認められない」ことは、すでに当裁判所大法廷判決(昭和二六年(れ)二五一八号、同三〇年四月六日大法廷判決―刑集九巻四号六六三頁)の判示するところであることを附記しておく。

裁判官石坂修一は、池田裁判官の右意見に同調する。

検察官村上朝一、同山内繁雄公判出席

昭和三六年七月一九日

最高裁判所大法廷

裁判長裁判官 横 田 喜三郎

裁判官 島     保

裁判官 斎 藤 悠 輔

裁判官 藤 田 八 郎

裁判官 河 村 又 介

裁判官 入 江 俊 郎

裁判官 池 田   克

裁判官 垂 水 克 己

裁判官 河 村 大 助

裁判官 下飯坂 潤 夫

裁判官 奥 野 健 一

裁判官 高 橋   潔

裁判官 高 木 常 七

裁判官 石 坂 修 一

○昭和三二年(あ)第二二四七号

被 告 人 市 川 鉄 夫

弁護人天野敬一の上告趣意

第一点〜第五点省略

第六点 原判決は死刑の執行方法について法律の定めがないに拘らず、その方法を特定することなく、敢えて死刑(絞首刑)の宣告をした点に於て憲法第三十一条、第三十六条に違反する。

(一) 原判決は被告人市川鉄夫に対し「死刑に処する」旨を宣告している。しかし、如何なる方法によつて同被告人を死刑に処せんとするものか、その方法については何ら特定するところがない。

尤も、原判決は刑法第十一条第一項が「死刑ハ監獄内ニ於テ絞首シテ之ヲ執行ス」と規定しているので、被告人市川鉄夫に対する死刑も同規定によつて執行さるべきことを予定しているのであろうが、絞首が一概に残虐でないとは断じ得ない。

かつて満洲国の絞首法は絞首吏が立柱に死刑囚の首を添え、絞繩をかけ、絞繩と首との間に棒を差込んで、之を捩り、絞首する方法であつたと云う。明治三年の新律綱領の規定する絞柱(懸錘式)の方法も右と大同小異である。かような絞首刑の執行方法が現今の「時代と環境とに於て人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合」(昭和二十三年三月十二日大法廷判決参照)に該当しないとは必ずしも断じ得ないものがある。

(二) 右新律綱領の絞柱式は、その後明治六年二月大政官布告第六五号により絞架式(垂下式)に攻められ、この方法は更に同年六月の大政官布告第二〇六号(改定律例)に引継がれ、明治十三年の旧刑法第十二条により「獄内ニ於テ行フ」旨規定された儘、今日に及んでいる訳である。

しかし、右大政官布告第六五号及び第二〇六号(改定律例)は今日に於ては既に法令としてその効力を有しないものである。蓋し、

(1) 右大政官布告による絞首刑の執行方法(現在行われている方法とは異るものであることは後記のとおり)は残虐であつて憲法第三十六条に違反する。

(2) 右大政官布告は明治憲法前に独裁的な手続によつて布告されたものであり国民の代表機関たる議会の協賛を得たものではない。議会の事後承諾を得たいわゆる緊急勅令とは自ら類を異にするばかりでなく、旧憲法下においては(新憲法下におけると異なり)刑の執行方法の如きは必ずしも法律を以つて規定しなければならなかつた事項ではない(旧憲法第九条参照)。従つて、これら布告は昭和二十二年法律第七二号「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」第一条により同年十二月三十一日を以つて、その効力を失つたものと云わなければならない。(昭和二十八年二月十三日附法務局第一部長高辻正己の「菊御紋章の取締に関する大政官布告等の存廃又は効力」についての意見参照)

(3) 右大政官布告は当弁護人と前後して誕生したものであり、既に八十五年の長年月を経過している。その間の科学の発達には寔に驚くべきものがあり、既に人工衛星すら射ち揚げられている今日において、かような前世紀の布告によつて「地球より重し」とされている人命の剥奪方法が規定されていると考えることは法曹として寔に忍び難いものがある。旧憲法下ならば、いざ知らず、新憲法施行十年を超えた今日まで、右大政官布告について何ら改正の議が起きず、しかも右布告の規定するところと異つた方法(例えば地上組立式であるべき絞首台を地下堀割式にしていること)によつて、絞首刑が執行されている公知の事実こそ、右布告が既に効力を失つたものであることを雄弁に物語るものである。(右執行方法が変更された法令上の根拠は明かでない)

(三) 要するに、前記大政官布告は既に効力を失つたものであるから、今日においては絞首刑の執行方法については何ら法令の規定がない訳である。現行の執行方法は本質的には前記大政官布告の定めるところと大差ないにしても、それは従来の慣行に従つているに止まるものである。しかも、その慣行たるや前世紀の遺物であり、八十五年の科学の進歩を無視して顧みないものであることは法医学者等の現に指摘しているところである。立法者の怠慢と云わなければならない。

して見ると、この慣行による現行の執行方法は何時執行官によつて擅に変更されるか予測し難いものがある。成程憲法第三十六条は公務員による残虐な刑罰を禁止しているが、絞首刑の執行手続について法令の定めのない限り、その執行者の判定如何によつてはたとえ善意であつても残虐な刑罰が絶対に行われないとは保障し得ない。しかし、かようなことは新憲法下において許容さるべきことではない。憲法第三十一条は「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命を奪われない」ことを保障している以上、絞首刑の執行方法については残虐にあたらない執行手続を法律で規定して置かなければならないことは云うまでもない。

ところが、絞首刑の執行方法に関する合憲の法律がないことは前記のとおりであるから、かかる法律が制定されない限り、絞首刑の執行は許さるべきではない。

(四) 右の如き次第であるから、裁判所が刑事被告人に対して死刑(絞首刑)を宣告することは無意味であるばかりでなく、それは法律の定める手続がなく、従つてこれによらないで生命を剥奪することを宣告するに等しい。従つて実定法上、死刑を宣告した判決は憲法第三十一条及び第三十六条に違反するものと云わなければならない。

尤も、執行方法に関する違憲の主張は刑訴法第五〇二条により「検察官のした処分」に対して異議の申立を為すべきだと云う論もあるかも知れないが、既に死刑が執行されて了つては事既に遅しと云わなければならない。如何なる執行方法が執られるか判らないと云う状態のまま死刑(絞首刑)の宣告をすること自体、前示憲法の各条規に違反するものである。

(五) なを、仮りに現行の絞首刑執行方法は憲法第三十六条に違反しないとしても、この執行方法は前記大政官布告の規定するとおりに行われている訳ではなく、前世紀の慣行によるものであり、法律の定める手続によるものではないから、憲法第三十一条に違反するものである。若し、前記大政官布告の定めるとおり行われるものであるならば、左様な執行方法は執行宣告と同時に失神状態に陥つた死刑囚を地上組立式の絞首台上に敢えて連行する点等で極めて残虐である許りでなく、該布告自体既に法令として効力を失つたものであること前記のとおりであるから、やはり憲法第三十一条に違反するものと断ぜざるを得ない。 以上

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例